会期 2009年10月31日(土)~11月8日(日)
AM10:00~PM5:00
会場 ノイエス朝日 スペース1・2
おのが埋葬の過ぎて
すでに遥かなる思いに
とまどうている
藪椿咲く
道の昼 詩画集『黄昏の壁』
麓さんは藪椿が好きでした。
— 藪椿かざしに童女観世音 —
— 野仏と椿の音を聞きゐしか — 句集『愛惜』
麓さんが他界して7年。孤高、含羞の詩人麓さんが、友人たちの懇望黙し難く、煥乎堂にて個展を許したのは35年前のことでした。次はその頃の備忘録に遺した言葉です。
言葉で、厳しく、美しい絵を描く。
むろん音楽ともなって。絵にすぎぬ。
せめて美しき絵を。
展覧会場の責任者だったことが機縁で、岡田芳保さんは、埋もれた惣介を世にの思いを抱いて、実現させたのがこの遺作展です。
彼岸の麓さんは、椿の季節にはまだ遠い日に、分身が白日にさらされて戸惑いながら、自分の心象風景が「疲れた大人の子守唄」になればと、微苦笑しているかと思います。
麓さんは、研究者・教師・表現者。また家庭人としてなど、多面の属性をもちながら、いろいろな意味で懐の深く広い非凡なひとでした。社会や自然の現状に対しては、厳しい眼差しを注ぎ、童子たちの将来を案じておりました。そしてその価値判断の根底には、終生奥飛騨根尾村で、豊かな自然と清貧の厳父・慈母に育まれた童心があったように思います。次の詩は、敗戦翌年結婚直後の作です。
つらつらつばきの
見る夢は みるゆめは
むかしむかしの山の夢
山のお寺の坊さんが
あほだら経をよみまする
経をよみよみひがくれて
ごろ助どんがなきまする
岡上登喜男
麓惣介は忘れられた詩人であり、画家である。
没後7年になる。
忘れられた詩人というよりは知られなかった詩人である。
本人が知られることを望んでいなかった気がする。
画家 麓惣介は、もっと知られなかった。
1974年(昭和49年)、54才の時に麓惣介展を前橋で開催しただけで二度と作品を見せなかった。
自分の内部に閉じ込めてしまい、孤独な絵の棲みかを楽しんでいたようだ。
そういう姿勢が画家 麓惣介である。
茄子色の上州の山脈が好きだった。
詩と絵は麓惣介にとって表裏一体の世界であった。
幻燈のような黄昏が好きだった。
─ はるかなる日へ夕焼雲をふりまくか ─
シルエットのような情感あふれる古代へのメルヘンを愛惜した。
花になりたい童女や幼児の言葉を記憶の土塀に刻んだ。
犬や猫や狐の 野原の棲みかに憧れていた。
過ぎゆく時のしるしを 虫たちを 花で飾りつけた。
─ うらうらと荘氏が蝶も舞い出でん ─
大作は少ないが、知られざる画家麓惣介の豊かな色彩の音色の匂う詩の宇宙が見られるのは嬉しい。
画家は私たちに魂のノスタルジーの世界を
夢の故郷を
つぶやくように伏目がちに恥らうように見せてくれる。
岡田芳保
大正9年(1920) 10月25日、岐阜県本巣郡根尾村に父勇司、母初枝の二男として生まれた。
父は駐在所に勤務する警察官。惣介は、美しい自然と穏やかな人情の、いわば桃源郷とも言えるこの山村で利発な心優しい少年として成長した。
昭和9年(1938) 岐阜県立岐阜中学校に入学。当時、岐阜師範学校と並ぶエリート校であり、父親、家族の期待は多感な少年の心に重く、微妙な翳りを与えることになったようだ。
昭和14年(1939) 岐阜中学校卒業。画家になりたかったが父の説得に従い上京し東京府立第四中学校(後、都立小石川高等学校)補習科に一年在学、旧制高等進学を目指し受験勉強。この後、後に妻となる増田知子の次兄と知り合う。
昭和15年(1940) 東京高等師範学校文化第三部に入学。
昭和18年(1943) 東京高師を卒業。東京文理科大学(後、東京教育大学を経て、筑波大学になる)文学部文学科英語英文学専攻に入学。
昭和20年(1945) 徴兵が迫り航空隊に志願したが不合格。一兵卒二等兵として入隊。敗戦後、岐阜県本巣郡の父母宅に復員。9月上京して文理大に行き、英語力を買われ大学より外務省を通じて建設会社間組の交渉課に勤務する。
昭和21年(1946) 増田知子と結婚。間組岐阜県各務原支所勤務。勤務の傍ら卒業論文(シェークスピアに関する研究)を書上げる。上京して面接、卒業となる。
間組を退職して、岐阜師範学校(後、岐阜大学)に勤務、英語の専任講師となる。岐阜中学の先輩でもあった小島信夫が着任していた。
小島信夫と創刊した「崖」(第二次)に詩「おるごる」「茶の木の花が散る頃だ」。
昭和22年(1947) 殿岡辰雄の主宰する同人雑誌「詩宴」の同人となる。長男慧(さとし)誕生。
昭和23年(1948) 千葉県立佐原女学校(後、女子高等学校)に勤務、英語の教諭となる。これより早く4月に小島信夫が赴任していた。
昭和24年(1949) 千葉県立船橋高等学校に勤務。
昭和25年(1950) 山形大学文理学部英語英文科専任講師となる。山形市内に転居。
昭和26年(1951) 二男、潤(ゆたか)誕生。
山形大学紀要に「フォルタフの変貌について」発表。
昭和27年(1952) 山形大学紀要に「オセロ再考」発表。
同人雑誌「同時代」第三号に短編小説「葉鶏頭」「けら」を発表。同人には、小島信夫、矢内原伊作、宇佐見英治、宗左近らがいる。第四号「同時代」に「くせもの」。
昭和28年(1953) 山形大学紀要に「リアのコーデリアに対する怒りについて」を発表。
山形大学文理学部助教授となる。「同時代」第五号に「あかざのステッキ」。
昭和32年(1957) 山形大学依願退職。千葉県習志野高等学校教諭となる。同校歌を作詞。
昭和41年(1966) 習志野高等学校退職。群馬県の国立群馬高等専門学校の教授となる。
昭和43年(1968) 高崎経済大学及び東洋大学非常勤講師兼務。この年より昭和49年までの7年間、小学館ランダムハウス英和大辞典の日米共同編集の責任者三人の内の一人として、基本語執筆、調整及び責任校閲を担当。
昭和46年(1971) 「成田成寿先生還暦記念論文集」に「ウインザーの陽気な女房達の道化」発表。
昭和49年(1974) 前橋市煥乎堂画廊にて「麓惣介展」を開催。
昭和50年(1975) 群馬高専を依願退職。
群馬大学教育学部教授(英語学)になる。12月病気を理由に依願退職。
自由人として清貧の生活をよしとして、後半生を己の創作活動に費やしたいという思いがあった。
昭和53年(1978) 茨城県鹿島郡大野村青塚に転居。
昭和54年(1979) 前橋の友人たちの手によって『黄昏の壁』が刊行される。
早稲田大学文学部中国語科を出て、貿易会社に勤務していた二男の潤が急逝。過労が原因と思われる心筋梗塞による突然死であった。部屋の机上に『黄昏の壁』があり、そのそばに「よき詩画集ありがとう。親爺を垣間見た思いが・・・」と記した未投稿の葉書が残されていた。享年28歳。
昭和56年(1981) 句集『夕焼』刊行。
昭和57年(1982) 句集『愛惜』刊行。
昭和58年(1983) 学校法人前橋育英学園短期大学教授、英語科長となる。
茨城県大野村より前橋の育英短大宿舎に転居。9月、大野村を処分し、群馬県多野郡吉井町南陽台に新築し転居。以後、ここに妻と二人で定住し、研究また創作に没頭の日々を送る。
昭和62年(1987) 育英短期大学依願退職。
平成14年(2002) 1月30日、心不全にて急逝。高崎市八幡霊園の墓地の二男の傍らに永眠する。